2023/07/25

家康は健康オタク よく食べよく動きよく寝ていた?

駿府公園の徳川家康像

健康づくりは 栄養と運動と休養のバランス よく食べよく動きよく眠る
バランスのとれた食生活 鷹狩等で体を動かす 質の良い睡眠
人の一生は、重き荷を背負いて遠き道を行くがごとし・・・健康が一番
無農薬にこだわり 野菜を多く食していたかな?
家康は、栄養士であり・薬剤師であり・医師であったようですね!
暴飲暴食を避けて、野菜中心のつつましい食事だったのかな?

駿府城

家康は、1586年(今から437年前)に浜松から駿府に移った。4年後の1590年に駿府から江戸に移り、17年後の1607年に大御所となって、再び江戸から駿府に帰って来た。73歳で没するまで駿河を愛し駿府を愛していたことでしょう。
家康の側室「西郷局(おあい)」は、掛川市上西郷の生まれ、1552年当時の遠江国上西郷村構江で父「戸塚忠春」母「西郷正勝(三河の国)の娘」との間に生まれたと徳川読本に記されています。

小山城(榛原郡吉田町)

小山城は戦国末期の平山城である。遠州進出を企てた武田信玄は、その重要拠点である小山の砦を攻略し、1571年(今から452年前)砦を修築して小山城と命名した。
徳川軍は、これを攻め取ろうとして十余年にわたり激しい戦いが繰り返され、1582年2月落城し、徳川方の城となった。1年前には高天神城が落城し徳川方の城となっている。さらに7年前には諏訪原城が落城し徳川方の城となっている。

諏訪原城址(島田市旧金谷町)

諏訪原城は、1573年(今から450年前)に武田勝頼が築いたとされています。大井川を境として、駿河から遠江に入る交通・軍事上で重要な場所にあり、高天神城(当時徳川方)攻略のために築かれました。
翌天正2年5月3日、武田軍は二万五千の大軍を率いて甲府を出発、遠く甲斐の国から引き連れてきた軍勢をここで休ませ、軍を整えてから高天神城へ向かったのでしょうか? 6月17日高天神城は武田方の城となりました。
その後諏訪原城は1575年に、徳川家康に攻め落とされ、牧野城と改名され、高天神城を攻略するための城として活用された。1590年ころ廃城になった。

高天神城址(掛川市旧大東町)

高天神城は、今川方の城であったが、遠江における勢力は今川義元なきあと衰退し、武田・徳川の覇権争いが始まる。
今川方の時の城主「小笠原氏興・氏助」父子が徳川方に付き、まずは徳川方の城となる。
武田軍は天正2年〈1574年)5月3日二万五千の大軍を率いて甲府を発と、瞬く間に高天神城を包囲し、猛攻を繰り返し、6月17日落城し武田方の城となりました。
その後徳川軍の完全包囲網により、1580年ころ武田方に見捨てられ、1581年3月22日再び徳川方の城となったが、主を置くことなく静寂な杜に抱かれた城跡として現在に至ります。・・・高天神城の歩き方ガイドより

横須賀城跡(掛川市旧大須賀町)

横須賀城は、1578年(今から445年前)頃に高天神城(当時武田方の城)を攻めるための軍事拠点として、徳川家康の家臣大須賀康高によって築かれた城です。
1580年に高天神城が落城した後は、江戸時代を通して遠江南東部を支配する拠点となりました。
城主は、大須賀氏・渡瀬氏・有馬氏・松平氏・井上氏・本多氏・西尾氏が八代、明治2年の廃城まで八家二十代続いたと看板に記されてました。

人生50年と言われたこの時代、重き荷を背負い73年という遠き道を歩み、天寿を全うした家康、健康に留意し、鷹狩や薬づくり等の趣味を持ち、その薬で周りの人たちを助けることが生きがいだったのでしょうか? 
郷土の城跡を訪ねて改めて家康の偉大さを感じました。

取  材:健康・生きがいづくり推進員  浅井 孝悦(西部地域担当)

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