2021/06/15
静岡での「コメ作り」は、登呂遺跡の時代から続く「命の苗」を植え続けること
1 山田さんが農作業をするようになったきっかけは、お父さんが病気になり農業ができなくなったからです。それまで時々、農作業を手伝っていたことと、自分が食べる米を作るので、重労働ですが引き継ぐのに抵抗はさほどなかったそうです。
約30年前には既に、田植機、トラクター、稲刈りコンバインなど一通り機械は揃っていましたが、まだ田植機が歩行型でした。泥田の中を歩かねばならず田植えの日は重労働で疲れましたが、今では写真のように乗車して操作するタイプになりましたので楽になりました。
それでも、50年前の稲の手植えの頃のことと比較すると雲泥の差があります。手植えの頃は親戚や近所の農家との共同作業でも、一日に2~3反(1反は300坪、約992㎡)が精一杯でした。
2 除草剤をまかないで、写真のような道具を使って雑草を除去していますし、ウンカやカメムシの駆除やいもち病などの対策にも農薬散布をしていません。
農薬散布をやめたきっかけは、噴霧器の故障にあったようです。イネの場合年2回の散布が必要とされ、それも暑い8月だそうで、身体への負担も大きかったので、試みに農薬散布をやめたところ、意外にも収穫量に大きな差はなかったとのことです。思い切った方法を採れたのも、サラリーマンで経済的な基盤がしっかりしていたからですが、副産物として、食べる方にも薬害がないし、散布をするのに消毒の飛沫を吸い込む危険性も回避できるという健康面の利点があるといいます。
3 近ごろの農業は機械化され写真のように田植機を使っていますが、肉体労働であることには変わりがありません。田植えの時や稲刈りの時などには人手も必要になりますが、それなりに楽しいものです。
静岡の稲作は登呂遺跡の時代、およそ2,000年前には稲作が行なわれたとされています。年1回稲作をしているとして、2,000回の稲作がこれまで行われてきたことになり、山田さんは30年間30回稲作をしているので、その全稲作期間の1.5%に当たります。意外と長いこと脈々と続く稲作の伝承の担い手をしていることになります。
4 水田は、コメという日本人にとって大事な食糧をつくる場所ですが、それ以外にも多面的な機能があます。例えば、洪水防止、水質浄化、水資源涵養、やすらぎ、気温緩和などさまざまな機能があると山田さんは言います。
都市部(市街化区域)の水田は、SDGs(持続可能な開発目標)の観点からも、できる限り保全していきたいと考えて、今年も田植えをしているとのことです。
5 稲作のルーツは東南アジアではないかとされています。日本には3,000年前の縄文後期に伝わったものですが、温帯モンスーン地帯の中にある日本は稲の栽培に向いている土地柄ということで、北海道にまで栽培が広がっています。
今ではコメは日本人の主食であり、神事にも欠かせないものになっています。また、コメは栄養価が高く、炭水化物だけでなく他の栄養素も豊富に含まれていることが普及につながりました。しかも、コメは収穫までの期間が約4カ月と決して長くなく、上手に育てれば1粒が1,000倍近くに増える効率のいい作物です。
6 平成7年(1995)食糧法のコメ流通規制緩和により、JAを通じて政府に供出しなくてもよくなり、自分で自由に販売することできるようになりました。それ以降、コメも自ら消費するものを除き、直接販売するようにしているそうです。稲を作っている田の隣の畑でとれた野菜も、静清バイパスの千代田上土ICの南側の住宅や商店などに囲まれた街中で写真のように商いをしています。郊外ではあるものの開発の波に押しつぶされそうになりながら、確固たる信念をもってコメ作りに励む姿勢にエールを贈りたいと思います。
山田さんにとってのコメ作りとは、心に苗を植え続けることのようで、今日も思いの種を蒔き続けています。登呂遺跡の時代から連綿と続くコメ作りの担い手という自負と環境保全にもつながる農作物を作るというやりがいもありますし、農作物を求める多くの馴染み客との会話が楽しみだとも言います。朗らかでたくましい野良着姿が印象的でした。
取 材:生きがい特派員 早川 和男(中部地域担当)